ブッダ 真理のことば(1)
お恥ずかしいかな最近小さな恨みを抱えて苦しかったので、
「恨み 対処」か何かでぐぐって、100分de名著のページにたどり着いた。
このシリーズは結構すきなので即kindleでダウンロード。
読んでみた。
「諸法無我」という考え方が自分的には新しく、ほう、と思った。
「この世のどこにも絶対的な自己存在などない」ということらしい。
最初から「わたし」があるのではなく、肉体的にも精神的にも様々な要素が組み合わさった結果、「わたし」と感じているものがあるのだと解釈した。
なんかわかる気がする。
大学の時にジャン・リュック・ナンシーを知り、「他者がいるから『わたし』と名乗れるのだ」と知ったときものすごく救われた。
それに似ている気もする。
わたしはこういうときいつも「だから人類補完計画とか考えたのかなあ、ゲンドウは」と思い浮かべたりする。
諸法無我、書かれている内容は理解できる。
なんか自分に有効そうな概念な気がする。
でも現時点の自分に置き換えてみると、
もし絶対的な私がないのだとしたら、私が今
「自我を取り戻さなきゃ」
「自分の欲はどこにある」
と思ってることはなんかズレているのだろうか。
「無明」だからなのか。
全然矛盾が生じてしまい、わかるけど、わかりきれない。
わかりたい、とは思う。
やっぱり宗教と親和性があると思う、わたし。
「私」という存在もこれと同じで、要素が合体したところに現れてくる、一つの機能にすぎないのです。
そっかー。うーん。
【諸法無我】すべてのものにおいて「私」とか「私のもの」という実体は存在しない。すべてのものは、その関係性において存在している。
修業がシステムなの、おもしろかったな。
別に出家しないと悟りを開けないわけじゃなくて、
悟りを開くための環境をめちゃくちゃ整えたら、出家というかたちになったていう。
ずっとわたしは「私」を追い求めていて、
どこかに「私」があって、それを獲得できたら、完全に自分のものにできたら
わたしはそのときこそ全てから解放されて幸せになれると思っている節がある。
だからこのテーマについて考えてみるのは有益かもしれないな。