も組のひと

そんなんやって何になる、と言われたものに救われながら生きています。

かみさまの百科事典

この世は、かみさまの百科事典なのだ。

「どのかみさま?」という質問は受け付けない。

しいて言うなら「わたしのかみさま」である。

このかみさまが、あなたのかみさまと異なるというのなら、

異なることの方が多いと思うけれど、

そういうかみさまもいるのかもしれない、くらいに思ってくれたら嬉しい。

 

 

かみさまの百科事典。

大人になればなるほど、教科書というものは存在しない、そう思っていた。

学生のときは、もちろん教科書があった。安全な正しさを、示してくれる大人たちも大勢いた。ところが大人になってしまうと、こどもの私にとって「大人」だったような存在はまるでなく、途方にくれた。大人になった私にとって、「安全な正しさ」は簡単に手に入るものではなく、というか一度も手に入れられたことなどなく、これから先も手に入るような見通しは全く立たない。こわい。そう思うことが増えた。
こんなことを書き連ねている今も、デキる人なら早急に返信しているであろうメールをほっぽっていることふと思い出して、胸の、胸と背中のちょうど真ん中あたりの部分がひゅっと熱くなる。こういうぼんやりとしたつかみどころのない、だから消化の仕方も分からない不安を抱えていることが多くなった。

教科書がほしかった。誰かに導いてほしかった。正しく安全なところへ迷わず手を引いてほしかった。安心したかった。

 

教科書があったことに気が付いた。ある小説を読んだおかげで。

教科書は、この世界そのものだった。

かみさまの。

かみさまの百科事典、というのが今一番的確にそのことを言い表せられる、そして私の持っている言葉の中で一番しっくりくるものだった。

過去も今も未来も、全ての事象はかみさまの百科事典に記されている。ひとりひとりに対して起こる出来事も、その出来事から抽出される、抽象的なおしえも。人間には到底数えることのできないほどの事象が、かみさまの百科事典には記されている。
わたしはそこに記されているひとつひとつの事象を、年を経るごとに、今まで知らなかったその事象を経験しているだけなのだ。高校生の頃の私は知らない、大学生のころのわたしもしらない、最初の職場にいたときのわたしもしらない、知る由のなかったことを、いまこのとき(たぶんそのひとにぴったりのタイミングで)に経験しているだけなのだ。私に特別に起こっていることではない。わたしにとっては未知でも、かみさまにとってはとっくに知っていることなのだ。かみさまの百科事典には、とうの昔に記されていること。

わたしは不幸を拾っているのではない。今まで知らなかった、知る環境にいなかった、それでもこの世界にはすでに存在していた、そんな事象をこのタイミングで通り過ぎているだけなのだ。
一生をかかってもさらいきれない百科事典の項目を、それでも少しずつ読み進めているのだ。わたしは初めて出会うから、辛いことならそれはそれは戸惑うし、嬉しいことなら舞い上がる。でもかみさまは知っている。ずっとずっと昔から。

そしてその百科事典にのっている様々な事象に出会っていくこと、それがかみさまのつくった世界と出会うことであり、ひとりの人間としての成長なのだ。と思いたい。
わたしは不幸ばかりひろって、自分を削っているんじゃない。この百科事典のページをあっちこっちとんで、読み進めながら、成長している。私は減っていない。むしろ増えている。自分の中のページがどんどん増えているのだ。

 

かみさまの百科事典という教科書が、わたしにはある。というか、これは誰にでもある。かみさまの百科事典のうえでわたしたちは生きている。
わたしが出会うことのないページもある。それは他の誰かが出会うページだ。それでいい。全部手に入れることはできないし、そんな必要はない。そしてわたしもその百科事典の一部、一ページなのだ。今まで生きてきた人の数だけ(まさに神のみぞ知る数字だ)ページがある。わたしのページもある。わたしはその百科事典の様々なページに出会うひとりであると同時に、その百科事典を構成するひとりでもある。わたしはとある事象なのだ。

 

ページが増えているのに、自分は減っていると感じていたのはなぜか。
それは、わたしが「安全な正しさ」という、その百科事典の中でいいことしか書いていないページを求めていたからだと思う。そのページだけがほしい、そのページだけで構成される人生こそ理想だと思い、思わされ、それしか求めていなかった。そのページを手に入れられない自分を認められなかった。
でもかみさまの百科事典は膨大なのだ。いいことも書いてあれば、悪いことも書いてある。(というかこの「いい」「わるい」はそれぞれの事象に人間が勝手に価値をつけているだけで、もし神様の価値、ジャッジメントがあるのだとしたら、それとは違うしそれをわたしは知り得ようがない)百科事典の始まりも終わりも、目次も、総ページ数も、かみさまだけが知っているのに、どうして自分の都合のいい(と自分が思っている)ページだけをたどることができるというのだろう。
いいんだ、わたしは確実にページを増やしている。辛く向き合いたくないことが多いが、それでもこれは不幸ではない。私の中にはどんどん積み重なっているんだ。10年前に知りえなかったことを、嬉しいことも、悲しいことも、知っているのだ。これで、きっといい。

 

とは書いたものの、それでも怖いものは怖い。向き合いたくない仕事はたくさんある。でもこれは罰じゃない。これは世界の一部だ。これはかみさまの百科事典にも載っていること。そう考えられるようになった、そう考えさせてくれた、いくつかの物語に感謝しかない。
そしてこの物語との出会いも、かみさまの百科事典にすでに記されているのだろう。本のページをめくるように、わたしは生きていくのだろう。その先に何が書いてあるかはわからない。何も書いてないのではないかと怖くなるときはいくらでもあるだろう。

それでもページはめくるしかないんだろうなあ。